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日本に魂を売った女、パクキョンウォン、朝鮮人女性パイロット

 


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今日は日本統治時代自分の夢を叶えるために日本へ来た若き女性についてお話します。パクキョンウォン さんは1925年パイロットになる夢を叶えるために韓国テグから来日しました。東京立川にあった日本飛行学校で操縦士の免許を取得しそして女性として初めて朝鮮半島から満州への飛行に挑戦しました。しかし悪天候の為に熱海付近の山中に墜落して32歳の若さでこの世を去りました。韓国では彼女のことを日本で魂を売った女とされています。現在熱海の墜落地付近には彼女の慰霊碑がひっそり建っています。立川駅から徒歩で20分ほどに陸自立川駐屯地があります。戦前この場所には日本飛行学校立川分校があり多くのパイロットが育成されたそうです。

1901年6月24日パクさんは6人兄弟の5番目にテグで生まれました。1904年日ロ戦争がはじまり日本と大韓帝国との間で第一次日韓協約が締結されました。1910年8月22日日韓併合条約調印29日には条約発行と同時に朝鮮半島は日本の統治下に置かれました。当時박경원さんの生まれたテグの人口はおよそ6000人でした。市の中心部はほぼ日本人の店舗や住居でした。兄弟が多く裕福でなかった박경원さんはそれでも学校へ通い勉学に励んでいました。そして1916年信明女学校へ入学します。現在は信明高校になっています。1917年学費を払うことが出来ずに박경원さんは信明女学校を退学します。박경원さんはお金を稼ぐ為にその年日本へ渡りました。横浜の養蚕ようさんの職工養成所に入る為でした。彼女が日本へ渡る途中釜山で見たものが彼女の人生を変えました。それは釜山の空に舞う曲芸飛行でした。

それを見たパクさんはあれに乗りたいなと思ったそうです。3年間日本で働いた後故郷のテグに戻りました。当時女性として働くことができる看護婦になるため慈恵医院助産婦看護婦科で学びその後看護婦として仕事を始めます。そしてそこでお金を300円ほど貯めて1925年日本飛行学校へ入学します。1926年2月から本格的に飛行機の操縦訓練を始めました。厳しい訓練を乗り越えて박경원さんは二等飛行機操縦士(遠距離飛行可能)の資格を目標に定めます。しかし当時資格取得に必要な費用は2000円(現在の300万円)という大金が必要となりました。お金がないパクさんを助けたのは当時の新聞社東亜日報でした。当時ではめずしい女性のパイロットということで記事を書き出資者を募集しました。そして1927年1月まずは三等飛行機操縦士の資格を取得しました。

翌年7月31日には二等飛行機操縦士の資格を取得しました。日本では81番目の二等飛行機操縦士でした。女性では3人目となります。満州国建国以降日本からの移住が盛んになり、1932年名古屋新聞社が日満連絡商業飛行を計画してることをしります。パクさんは直ぐに名古屋新聞に参加を申し込みました。しかし一等飛行機操縦士でないと参加は認められませんでした。当時一等飛行機操縦士は男性だけが取得できました。それで参加を断念しました。その後日本夫人航空協会が日満親善連絡飛行を計画します。当時女性パイロットはとても珍しく世界でも注目されていました。1930年11月24日には英国の女性パイロットブルース夫人が飛来しパクさんは日本を代表して迎えいれました。当時満州まで飛行できる二等操縦士の女性は3人のみで、その中で最も優秀なのがパクさんでした。しかしパイロットに選ばれたのは4年後輩の上中すずこさんでした。

パクさんが選ばれなかった理由は純粋な日本人ではなかったからとされています。そのころパクさんの応援をしいた帝国飛行協会が日満親善皇軍慰問日満連絡飛行を計画します。朝鮮人女性が日本と満州の架け橋となることで内鮮満一体化につながると考えられ박경원さんが選ばれました。名古屋新聞に断られたパクさんは三度目でやっと選ばれました。パクさんは満州国関東軍朝鮮総督府などの関係者に挨拶をしながら準備を進めました。そして1933年8月7日日満親善、皇軍慰問日満連絡飛行になります。多くの見物客でにぎわう羽田を飛び立った青燕号は大阪、太刀洗京城、経由で新京までの予定でした。しかし天気が徐々に悪化して午前11時17分箱根の上空で行方が解らなくなりました。このことは新聞の夕刊で大きく取り上げられたそうです。パクさんは墜落現場で発見されました。墜落した現場は熱海市のくろたけでした。彼女の予定では4日以上かけて新京に到着する予定でしたがわずか50分たらずで墜落しました。

村人らに発見された後の1933年8月11日帝国飛行協会講堂で日本飛行学校による告別式が執り行われました。盛大な告別式に飛行学校の仲間たちが花をたむけました。現在墜落した熱海市では毎年供養を行っています。墜落した翌年から現在まで供養はずっと続いているそうです。日本に魂を売った女と呼ばれるパクさんの無念な気持ちに寄り添う熱海市の住民の方々はただただ彼女の夢が実現できなかったことを思い毎年供養に訪れているといいます。故郷の朝鮮が捨てたパクキョンウォンさんですがいつまでも熱海の皆さんの供養により寂しい思いはしてないことでしょう。